2017年3月1日水曜日

『ラ・ラ・ランド』と『セッション』を観て思ったこと 【夢と狂気】

夢を見ていた。









立川シネマシティの極上音響上映でデイミアン・チャゼル監督の『セッション』と『ラ・ラ・ランド』を観てきました。(ちなみにその前に『ナイスガイズ!』も観ているので、ゴズリング繋がり&チャゼル繋がりの1日でした笑)

チャゼル監督の2つの作品を観て思ったことを描いていきたいと思います。






『ラ・ラ・ランド』の違和感

前評判通り『ラ・ラ・ランド』はとても面白い映画でした。ゴズリンもエマもとても素敵だったし、何より鬼教師フレッチャーが出てきたのも燃えました笑

最後のセバスチャン(ゴズリン)の空想の中でのキスシーンで心をがっちり掴まれたし、泣いてしまいました。

オープニングのハイウェイでの「another day of sun」のシーンはミュージカルとしてワクワクしました。

ただ、ツイッターやブログなどで多くの方が指摘している通り、それ以外のミュージカルシーンはあんまりノレナイ感じがあった気がします。

歌い出すシーンが唐突すぎるとか、凡庸だとか色々と言われてますが、このミュージカルシーンに関しての言及は他の方にお任せすることにします。ミュージカルは全然詳しくないので笑

他に多くの方がノレないなと言っているのが多かったのはゴズリン演じるセバスチャンについての部分でしょうか。セバスチャンの選択や行動に「お前それ違くね?」って思っている人が多いように感じました。

正直に言って、この2つの点を指摘してあんまりノレなかったって言っている人たちの気持ちも分かります。むしろその指摘は正しいと思います。

だから僕も『セッション』ほどこの映画を好きになることができなかったです。でも、『ラ・ラ・ランド』には僕の心をガシッと掴む何かがあったと思うんです。

それは一体なんなのか。『セッション』と絡めて考えてみようと思います。



『セッション』と『ラ・ラ・ランド』に共通するもの

先にも書いたように僕は『セッション』が狂おしいほど好きです。偉大な音楽家に憧れ、それを夢見る少年が、狂気の男と出会い、その狂気を食ってしまうほどさらに大きな狂気と憎悪を持って演奏を始めた先に得られるカタルシスが大好きだからです。

もっとも主人公は純粋に夢を見ているかと言われればそれも違います。彼はただ早くドラムを叩ければいいとしか思ってないし、むしろ自分をバカにしてきた周りを見返してやるために叩いているようなフシもあります。

彼は親戚にもバカにされていたし、彼の母親が父親に愛想を尽かして出て行ってしまったことも彼の中ではコンプレックスなはずです。でもそれを悟られまいとするために、ただの高校教師の父親を「物書きをやっている」なんて大げさに言って見たりするわけです。

そんな彼が狂気のフレッチャーと出会ってボコボコにしごかれ一度は心を折られるものの、最後にはその憎悪を昇華させ、フレッチャーと心を通わせるほど音楽の素晴らしさを発見する所にカタルシスがあります。

それはまさに狂気と狂気のセッションで、綺麗な道のりを経て辿り着いた素晴らしさではないんだけど、何かを犠牲にしてそれを昇華させることができた人たちにしか見えない光景が広がっていたように感じるんです。

その場では主人公とフレッチャーはもはや憎み合ってはいません。

むしろ「俺たち色々あったけど、今この瞬間は最高だな」的な分かち合い、グルーブがあります。なんかもう戦友に近い感じですよ。「お前のこと好きじゃねえけど、やっぱ強えな」みたいな笑

極端な話『ラ・ラ・ランド』もこれに近いところがあったと思うんですよ僕は笑

多分、『ラ・ラ・ランド』をミュージカル恋愛映画として観ていた人には腑に落ちない部分がたくさんあったと思います。

でもこの映画は『セッション』ほどの狂気はないかもしれないけど、夢を見て夢を追いかけた二人が何かを犠牲にして、それを昇華させるところにグッとくる映画だと思うんですよ。

ゴズリン演じるセバスチャンなんて若干『セッション』の主人公(ずっと『セッション』の主人公の名前を思い出せなくてゴメンなさい笑 アンドリュー・ニーマンだっけ)と被るとこあるじゃないですか。

ゴズリンはジャズに全てを捧げてるんだけど、その思いはどこか歪んでいて。純粋な、伝統ある”ジャズ”だけを信じていて、それこそが本物のミュージシャンだと思っている。

そしていつか自分の好きなように演奏できるジャズの店を開きたいという夢を持っている。

でもその夢を叶えるために、自分の信念である伝統的なジャスこそが本物という考えを脇に置いて現代的な要素を加えたバンドにも参加しなくちゃいけなかったし、いざ店を開いても自分よりも才能のあるピアニストを雇わなきゃいけなくなってしまった。

何より自分の夢のために(エマの夢のためにもっていう部分もあったと思うけど)別れるという選択をしなくちゃいけなかった。

そういう色んな犠牲を払って辿り着いた風景があの空想だったんだと思うんですよ。

現実に戻ってエマが立ち去る前に振り返って目を合わせた場面。あそこでの二人はもはや戦友ですよ。「俺たち色々あったけど、頑張ったよな」みたいな。そこにカタルシスがあったと思う。

だから空想の中でキスしたシーンにグッと心を掴まれたと思う。

あれは結ばれなかった恋を夢見たシーンなんかじゃないと思うんです。お互いの夢のために、戦った二人の人間が、犠牲を払ったからこそそれを昇華することで見えた光景だったはずなんです。

『ラ・ラ・ランド』のパンフレットの中で、評論家の町山智浩さんがチャゼル監督の言葉を引いて、空想のシーンについてこう書いています。

ところが突然、ミアとセバスチャンが添い遂げる人生が展開する。(中略)この7分間について、チャゼル監督はインタビューで、ただの夢じゃない、と主張している。

「本当に深い感情は時空も現実も物理法則も超える」ミュージカルで人が突然踊り出すのはそれなんだと言う。「気持ちが心にあふれた時、天国から90人編成のオーケストラが降りてきて演奏してくれるんだ。それはバカバカしいかもしれないけど、真実なんだ。少なくとも僕にとって」

(パンフレットより引用)

あの光景は二人(少なくともセバスチャンにとっては)現実で、そのカタルシスの作り方は『セッション」のそれと似ているように感じました。

だからこそセバスチャン違くね?ってなってノレない人がいるのも分かります。だってセバスチャンはどこが歪んだ形でジャズを愛していて、そのために独善的にもなれるから。

でもそのことを二人は後悔していないし、そのことについてミアは理解してさえいる。

端から見れば理解できないことなのかもしれないけど、二人にとっては(なんども言うようにあるいはセバスチャンにとっては)その光景こそがずっと夢見たものであったはずなんです。

パンフレットの記事で町山さんは以下のように締めています。

天国のオーケストラが聞こえるのは一種の狂気かもしれない。でも、ミアがオーディションで歌うように「狂気こそが鍵」だ。ラ・ラ・ランドの扉を開けるための。

(パンフレットより引用パンフレットより引用)

やっぱり『ラ・ラ・ランド』も『セッション』も夢と狂気の話のように僕には思えるのです。

そしてそこに僕はガッツリ心を掴まれる瞬間があったし、なんとなくノレない人がいるのもその部分じゃないかと思いました。

(『風立ちぬ』にも似たような要素があったように思います)



蛇足

もう一つ『ラ・ラ・ランド』と『セッション』に共通する要素として「ジャズが死ぬ」というセリフがあると思います。

前者では伝統的なジャズだけを本物だと思っているゴズリンが「ジャズが死にそうだ」と言っていたし、後者ではフレッチャーが「世の中甘くなりすぎた。ジャズが死ぬわけだ」と言っています。

これについて監督が語っているインタビュー記事があるので、それを貼って今回の僕の記事を締めたいと思います。

http://top.tsite.jp/news/cinema/i/34424157/



0 件のコメント:

コメントを投稿